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2011.01.08 Saturday

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14+ 「3人いる!」
2011.01.08 Saturday 00:56
JUGEMテーマ:演劇・舞台
 

「 脚本を超えて、もっと独自色を 」

        
日時:2011年12月25日  14:00〜     場所: 博多扇貝

村山雅子(HN: 観世)



14+は、近年演出家としての活躍が注目されている主宰の中嶋さとが、既成の脚本に演出をつけ上演するという形を取ることが多い劇団だ。今回は、多田淳之介(東京デスロック)の作品に挑戦している。

 舞台は一人暮らしの男(小塩泰史)の部屋。脱ぎ捨てた服やマンガ、文房具などが散らばっている。その部屋に別の男(手島曜)が入ってくる。彼はここは自分の部屋だと主張し、お互いに「お前は誰だ」という騒ぎになる。話を聞きあううち、どちらも本人であることがわかってくる。自分しか知りえない個人的体験、記憶、友人の話、すべて間違いなく自分である。では自分は2人いるのか? そのうち1人が分裂する。突然女性(朝長舞/中嶋さととWキャスト)が1人入って来て男に重なり、視覚的には2人となる。だが話の内容は1人分。2人で1人を表現しているのだ。次第に、それぞれが分かれたり別の人とくっついたり、今度は1人が2人に分裂したり・・・ということが繰り返され、エスカレートしていく。組み合わせや会話が脈絡なくめまぐるしく変わる。

存在とは、そのほとんどを視覚に頼っていることを強く自覚させられる。目で見えていることを否定され混乱させられると、何がどうなっているかわからなくなる。いったい今、誰がどれで何人いるのか。今言っているセリフは誰のセリフなのか。そうとわかった瞬間また変わり、またわからなくなる。そんな風に、脳をかきまわされる混乱と不安感がめまいのように襲う。

非常におもしろいテキストであり、その内容には魅かれたが、それは作者である多田淳之介の手柄である。この公演で求められるのは、舞台作品としてのおもしろさだ。中嶋が脚本をどう料理して舞台に乗せるか、「14+」色がどのように出ているか。そこに中嶋があげるべき手柄があるはずだが、残念ながらそれが見られたとは言い難い。こういうお話かぁという感想は残ったが、演出や解釈にハッとさせられる点があったかというとそれは無く、淡々と役者のエチュードを見せられているような感じであった。服装も全員黒、舞台も黒。雑然と散らばった服や本などは、一人暮らしの男の部屋を描写したのみであろう、特に何の工夫もない。音楽もほとんどない。デスロック公演をコピーしたのだとしたら、その必要はないだろう。

もっと観客を混乱させる、ぞっとさせることができるはず。特に友人の家へ行ったシーンで、最初とまったく同じシチュエーションが繰り返された時など、演出の技量の見せどころではないか。

東京でしか見られない注目作品を上演するのは、意義のあることだが、ただそれだけの劇団になってもらっては困る。奇をてらえとは言わないが、独自の味にアレンジする思い切りが欲しい。この思いは私は以前から持っていて、そのうち変わっていくのではと期待しているのだが、逆にだんだん勢いがなくなっていくような気がして残念だ。

役者陣は相変わらず安定した技量。今回がデビューという朝長も、演技力を評価しにくい作品ではあったが他2人に遜色ないレベルではあった。

【終】

 

| MM(村山雅子) | 劇評 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
F's Company 「ワレラワラルー」 
2010.12.24 Friday 22:57
JUGEMテーマ:演劇・舞台

 

「 ストーリー以外の曖昧さ・創りの甘さは惜しい 」

        
日時:2011年12月12日  14:00〜     場所:ぽんプラザホール

村山雅子(HN: 観世)



 劇場に入ったら、舞台が組まれていなくてちょっと驚く。ホール中央の床が演じる場で、その両側に階段状に客席が設置されている。中央のフラット部分の突き当りには、両方に緑色の金網で作られた扉付きの出入口。ここはワラルーの飼育場なのだろう。ワラルーが逃げ出さないように、出入口にああして金網が施してあるのだ。ワラルーはカンガルーの小型の動物であるという。客席の前には低い緑色の柵があり、動物園の「カンガルー広場」みたいな雰囲気がよく出ている。開演10分前になると、4匹のワラルーが現れ、飼育場で思い思いに過ごしだす。耳のついた茶色いフード付きマントで扮した役者たちである。寝そべったり、他のワラルーと顔を近づけてみたり、立ち上がって入場してくる客を凝視したり。飼育員が出入口の脇でそれを見張っている。パンフレットもまるで動物園の園内マップだ。ここまで凝ったオープニングから、舞台は始まる。

 ただし、動物の世界を題材にしているという設定を除けば、ストーリー自体はあまり目新しいものではない。悩みを抱える少女が、友人の理解や母の死によって、精神的に成長するというのが大枠の話だ。物語も、静かに落ち着いて進んでいく。(作・演出 福田修志)

 最初にワラルーの親子が会話するところは、動物なりきりごっこのようで、動物を人間が演じるのはやはり難しいなと思った。ただ、親子ゲンカをしながら客席に向かって「じろじろ見てんじゃねー!」と父親が怒鳴ったのはおもしろかったし、チンピラみたいなカピバラにも意表を突かれて笑った。

暗転を一度も使わず、ワラルーのマントを脱いだり着たり、あるいは相手に着せかけたりすることで、人間になったり動物になったりの変化を見せる手法はおもしろい。マントだけを持っていくことで、ワラルーを連れていったことを表現したり。そのマントの脱ぎ着が、後半あったりなかったりするようになり、人間なのかワラルーなのかが曖昧になってくる。たとえば、ワラルーの子ども役の二人が、飼育体験の女子高生二人も演じているが、この設定がだんだん混ざりだぶっていく。彼女たちはワラルーになった夢を見たのか。あるいはワラルーが人間になった夢を見たのか。

後半、ワラルーのお母さんハイジが倒れる。一人の飼育員は自分のせいだと落ち込み、死んだら解剖するということに対して激しく反対する。かわいがっていたのはわかるが、動物園では生死と向き合うのは日常的でいわば当然のこと。あそこまで抵抗するのは少々不自然ではないか。

また、ところどころに見られた造形物の稚拙さが気になった。ワラルーのマントはあれくらいでもいいかもしれないが、たとえばカピバラさんの鼻が壊れてしまったりした。ただ、あそこは笑いどころでもあるし、壊れたことをネタとして利用してもおかしくない。興がそがれたのは、解剖したときに取り出した内臓だ。ハイジの体の中から1個1個内臓が取り出され並べられて行くが、これが小さな手芸の手作り品のようなもの。こんなにシリアスで重要な場面なのに、「ん? 笑うところ?」と思ってしまった。あの取り出したものが、(小さくても)もう少し凝った造りで重みのある造形物だったら、あるいは不思議に光り輝くようなものであったら、舞台の緊張も途切れないのではないのだろうか。飼育員が解剖にあれほど抵抗し、倒れた後も獣医師と飼育員が必死に看病した、揚句の解剖シーンである。隙を見せずに作って欲しかった。

最後に小さなノートがハイジの体の中から出てくる。ワラルーのお父さんから受け継いだ、大事なことがメモしてあるノ−トだ。もらわれて来たりよその動物園へ行ったりする、本当は血のつながらないバラバラなワラルーのメンバーを、家族としてつなぎとめる記憶であり、遺伝子であり、受け継がれるものの象徴。このノートは今度は、ワラルーの子どもが受け継ぐのだろうが、そんな展望が見えてもよかった。

オリジナルの音楽が心地よく美しい(柴田健一)。作品にもよく合っていたと思う。また照明(友永貴久)もいつも通り幻想的で綺麗だ。ただ舞台は、前方に普通に組んだ方がよかったのではないか。ワラルーが近づいてくるのは楽しかったが、その他は少し離れて見たいという欲求を覚えた。

【終】


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イキウメ 「図書館的人生vol.3 食べもの連鎖 〜食についての短篇集〜」
2010.12.20 Monday 16:09
JUGEMテーマ:演劇・舞台

 

「 生きること、摂取すること 」
        
     
日時:2010年11月23日 14:00〜   場所:西鉄ホール

村山雅子(HN: 観世)


 私は以前、前川知大について「本当に異界と交信できるのでは?」と書いたことがある。今回思ったことは「異界に住む親しい友人が何人もいるに違いない」ということだった。まさに彼の書くものこそ『奇譚』であろう。

 この作品は『図書館的人生』シリーズの3作目。このシリーズは毎回のテーマに沿った短篇から成る作品で、今回は4つの短篇から構成される。『食についての短篇集』という副題のとおり、4つの短篇それぞれが「前菜」「魚料理」「肉料理」「デザート」と位置付けられている。

 1話目:前菜は、料理教室に通う女が菜食主義にかぶれていく話。女(岩本幸子)は、料理教室の講師橋本(板垣雄亮)に心酔し、肉を一切食べない「菜食」を貫くようになる。彼女の夫(浜田信也)はふつうに肉を食べたい人。女はそんな夫に菜食を強要せず、だんだん慣れていったらいいという態度で料理を出していた。しかしある時、夫が肉だと思っていた料理は、2週間も前から植物性のグルテンで作られたものであったことがわかる。いわば突然裏切られた夫は、何もかも信じられなくなり、叫んで発狂したように飛び出していく。

 2話目の魚料理は、1つだけ趣の異なる作品だ。万引きのプロである畑山(安井順平)。彼は万引きで生計を立てているが、必要なものしか盗らない。面白半分や手当り次第の万引きをする素人とは違うプロの万引き屋だ。一方、懸賞で当てたものを売るなどして生計を立てている女、梅津(賀茂杏子)。「美学」とポリシーをもってことに向かっている姿に共感した畑山は「オレはお前を理解できる。オレとつきあえ!」と言って女の部屋に住みつく。女はノーと言い続けるが、同種の人間として理解しあいながら奇妙な同居生活が続く。あるとき、畑山は家電などの大物を万引きする天才万引き屋 平雅(緒方健児)に遭う。彼は愉快犯で、手当り次第盗っていき、そのせいで多くの店がつぶれていっている。畑山はそんな万引きはやめるよう説得を試みるが、とりつくシマがなく、ついに店員に密告――つまり同業者を告発するというタブーを犯す。

第1話で料理教室の調理台であったテーブルが、スーパーの商品棚として縦に並べられ、その間をカートを押しながら買い物客が幾何学的に動く。時には並んで止まる。無表情で整然とした動きの中、万引き犯たちだけの時間が別次元で流れているように見えた。演出の妙であったと思う。

第3話目は肉料理。レアでボリュームもたっぷりだ。

主役は、第1話の料理教室で講師をしていた橋本(板垣)。彼は本当は115歳であると、取材に来たカメラマン(浜田)に言い、その数奇な人生を語り始める。

橋本は体調を崩したことがきっかけで、あるとき血液を飲んでみた。最初はひじょうにまずいし、倫理的に抵抗もあったが、続けていくうちに肌つやが良くなり若返っていることに気付く。「飲血」がやめられなくなった彼は、医師の友人の協力で、血液を入手しながら飲血を続ける。そのうち若返った橋本を見て、妻も血を飲むようになった。二人で若返って幸せに暮らしていけるかと思われたが、ほころび始める。何より血を飲むことしかできない、食べ物を食べられない体になっていることが苦痛である。妻はある日、つのる食欲についに耐えきれなくなり、大量の食べ物を食べた後に血を吐いて死んだ。

そんな苦しみを抱えながら血を飲んで生きていた橋本だったが、ある時飲んだ血の味が初めて感じたものであった。それはベジタリアンの血液であり、その味が忘れられない彼は、提供者の女性(伊勢佳世)を探しだす。献血だとだまし、彼女の血を採って、採血管から直接それを飲もうとする橋本。静謐で恐ろしく、なぜか淫靡さも漂うシーン。板垣の凍りつくような演技に息をのむ。

橋本のしていることを見てしまった女は最初おびえるが、なぜか理解した。彼女は橋本を生かすために自分の血を提供するようになるが、量が足りない。そこでベジタリアンの血を確保するために、二人で菜食料理教室を開く。

飲血をする様子、続ける苦痛、その効能と副作用。どれも作者が体験してきたようにリアルで、気がつくと「そうか、血を飲み続けると若返るんだ・・・」などとふと信じてしまっている自分がいる。あぶないあぶない、そんなことあるわけない。こんな、ありえないけれどもしかしたら・・・と思わせるのが、前川知大の世界だ。不気味でありながらおもしろく、しかも見てはいけない部分を一瞬のぞいたかのような軽い罪悪感まで憶えてしまう。

橋本は言う。「私はただの寄生虫だ。食物連鎖の中に私はいない。ここまでして生きる理由が見つからない」。何を摂取して生きるのか。それは何のためか。元気なこと、若いこと、それはすばらしいが、どれほどの努力や犠牲を払ってその状態を維持しても、それは「生きる」ということなのだろうか?

 ・・・などと複雑なことを考えるのもいいが、異界への小旅行をただそっと楽しんでくるのが一番かもしれない。田舎のお年寄りのふしぎな体験談を、夜にいろり端で聞くように・・・・。
                                                      【終】

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おひさしぶりです
2010.11.08 Monday 11:38
長いことブログ放置すみません。

しばらく劇評を書けずにいまして・・・(公演を見る機会がなかったのが一番大きな要因)
反省しつつ、「義務ナジウム」(次記事)を書きました。
ついでに、私事で恐縮ですが
夏に行われた九州・福岡演劇祭劇評賞を、光栄にもいただきましたので
その受賞作品も掲載させていただきました。

こんなペースではございますが、
ぼちぼち更新していこうと思っております。
今後は、舞台を見たらすぐ書く!を目標にがんばります(笑) (1週間以内にはUPをめざします!)

また読みに来てください。



村山雅子 拝
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「義務ナジウム」九州戯曲賞佳作作品 リーディング公演
2010.11.08 Monday 11:19
JUGEMテーマ:演劇・舞台
 

「義務ナジウム」 (九州戯曲賞 佳作受賞作品)
  
           
日時:2010年10月16日   場所:大野城まどかぴあ 小ホール

村山雅子(HN: 観世)



 今年2年目を迎えた九州戯曲賞。今回は大賞に該当する作品がなく、河野ミチユキ氏(熊本、劇団ゼロソー作・演出担当)の『義務ナジウム』が佳作を受賞した。

この賞の受賞作品の周知として、大野城まどかぴあではリーディング公演を開催している。賞を与えるだけでなく、その作品を広く紹介しようとする取り組みは評価に値する。しかし観客数がもう少し多いとよかった。この戯曲賞がもっと認知され、それとともにリーディング公演にももう少し客が入るようになっていくことを願う。

さて、受賞した河野氏は、所属する劇団ゼロソーで、空気感を大事にした繊細で情緒あふれる舞台を創り出すと定評があるそうだ。また近年は「コミュニティーの歪みに焦点を当てた作品」(リーディング公演上演パンフレットより)を創っているとのことで、今回の作品でもそのスタイルが強く感じられた。

九州の山奥にある美女都(みめと)町。女性の多いこの村には、昔から伝えられる村独自の風習があった。14才になると男女ともに、村の大人たちによって性的関係を体験させられるのだ。俗に言う「筆おろし」であるが、それがいわゆる元服、大人になる儀式ということで、秋の祭りの日に秘事として行なわれる。この作品は、その秋祭りを迎える数日間を描いた話だ。

現代という時代において、この村も外部から客が来たり嫁をもらったり、近隣町村との関わりを持たざるを得なくなったりしている。その中でこの風習・この考え方を守るべきかどうか。14才の子供たちだけではない。代々続く家に嫁いだ女は、夫の父や兄弟とも関係を持つ。子孫を残すためだという。「みんなこれを繰り返してきたんだもんね」そう思ってあきらめ受け入れている。

周囲から隔離されたような小さな集落には、独自の因習が残っていることがよくある。ずっとそうしてきたからと続いている、その「人には言えない、見せられないようなこと」が、社会的に明らかになりそうな時、その集落の人々は何を思いどうするのか。非常におもしろい着眼点であり興味をひかれるテーマだ。方言を多用し歴史や伝説を散りばめることで、九州の山奥がなんとなく想起される。

また構成も巧みである。なんとなく想像はつくが、確証が持てないこの村の秘密。親密すぎて複雑化している人間関係。それらがもどかしいほどゆっくり明らかになってくるので、後半までじりじりとした気分が続く。

ただ、見終えた後の印象としては、非常に狭い世界の話であり〈閉じた感じ〉がした。テーマはたしかに面白いが、普遍的なものとして投げかけるには、もう少し工夫が必要かもしれない。たとえば、昔からのしきたりとして村民はそれに従って生きてきたのだろうが、なぜそうしなければならなかったのか。そうまでして守ってきたものは何で、それはこれからも守らねばならないのか。しきたりを破る恐怖があるなら、その理由と描写が必要だろう。それを破ろうとして何かひどい目に遭った、等である。これがはっきりしないために風俗的興味の色が強くなり、その裏側にある「そうせざるを得なかった理由」が薄れてしまっている。「女ばかり」の村であることや、伝説の神木「乳銀杏」について等、肝心なキーワードについても漠然としか触れられておらず、詰めが甘いように思った。

 ところで、この作品で私が一番感動したのは「美しいト書き」であった。役者が演じる普通の公演では、ト書きに書かれていることは舞台から感じるだけのものであり、その文章に触れることはできない。リーディング公演はト書きも朗読してくれるので、この作品のト書きが実に美しい文章で綴られていることが聞き取れた。このような点からも、リーディング公演は戯曲作品の紹介に適していると言えるだろう。

このリーディング公演の演出は、グレコローマンスタイル主宰の山下晶氏が担当した。「可能な限り『おと』だけでこの作品の世界観を伝えたい」(パンフレットより)ということで、桃を食べるピチャピチャという音、ミミズクの鳴き声や羽音などを強調し、淫靡な印象や山奥の雰囲気をよく出していたと思う。また、舞台下手に設置された階段が、神社を出入りする人とその心情を表現するのにうまく活かされていた。

 

また来年以降もこの九州戯曲賞に、すぐれた九州色の濃い作品が多く応募され、次は「大賞」受賞作品のリーディング公演で、新鮮な感動に出会うことができることを期待している。

                                                      【終】

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九州・福岡演劇祭公演 「夏の夜の夢」
2010.11.07 Sunday 11:25
JUGEMテーマ:演劇・舞台
 

「福岡の若い演劇力が集った祝祭」

           
日時:2010年8月29日  18:00〜     場所:ぽんプラザホール

村山雅子(HN: 観世)

鳥のさえずりと(もや)に包まれた森の中に、白い屋敷が立つ。遠くに見えるペーパークラフト調の町並みがきれいだ。3人の職工が現れ、面白くおしゃべりをしながら物語へと導くが、口上の最後に観客に一本締めの協力を頼む。舞台上の3人と観客全員とが「よォーッ、ポン!」と手を叩くと同時に暗転。舞台が始まる。

 九州・福岡演劇祭の企画として、福岡で活動する俳優・スタッフが所属を越えて集まり創り上げたプロデュース公演。シェイクスピア作品を、設定は原作に忠実に、セリフやテンポは現代的にうまく脚色。わかりやすく楽しい元気な舞台に仕上がっていた(脚色:川口大樹)

 まず目を奪われたのが衣裳である(白浜佳月永)。すべて手作りのように見えたが、豪華で美しく、デザインや色、細部へのこだわり、役柄によるバランスも計算されてある。福岡の小劇団公演でここまでクオリティの高い衣裳を見たことがなかったので驚いた。他にも、よくできた小道具(中島信和)やメイク(橋本理沙)、幻想的で美しい照明(荒巻久登)など、堅実なスタッフワークが作品を充分に支える。

 役者陣はどの人も魅力的で演技力にも不安がない。最も印象的だったのは、妖精の王妃タイターニア(濱崎留衣)。アメリカコメディー映画の奥様を見ているようで、貫禄がありながらもかわいらしかった。最も有名な役と言える妖精パック(杉山英美)は、ハツラツさが良かったがずいぶんしっかり者の印象。あまりいたずら好きな感じがしなかった。また、恋人たちのうち男性2人(林雄大、大澤鉄平)の美男ぶりには、登場からハッとさせられたほど。町の職工を演じた6人は、そのうち3人が女優でたいへん芸達者ではあったけれども、あれは全員男優の方が良かったのでは。

 実力と魅力が備わったメンバーが集結したからこその充実した舞台だったが、このような企画が定期的にあったらと思った。この企画に出ることが、役者にとって栄誉やステイタスだというレベルになり、これを目指して役者たちが研鑽を積むようになったらいい。参加できればふだん自分たちの劇団ではできないような舞台を創れるし、異劇団のメンバーとのジャンル・年齢・経験を越えた交流と刺激を得ることができる。それが役者たちの意識を高め、実力を育てていくはずだ。実際今回の舞台を見て、次回またあったら自分も出たいと思った役者は多いのではないだろうか。作品も有名な古典を選んだことで、幅広い観客にも楽しんでもらえただろう。若い演劇人に、古典や名作に取り組む場を与えるのも非常に意義のあることだと思う。このような企画の今後の継続と発展を、一観客としても期待したい。

 舞台のラスト、役者が全員登場して「お気に召さずばただ夢を、見たと思ってお許しを」という有名な口上を述べると、一気にシェイクスピアの香りが漂う。その直後、「よォーッ」と一本締めの構え。観客全員が忘れずに一緒に手を叩き、舞台はその拍手(クラップ)とともにフッと消えてしまった。朝になり夢が終わるように、幸せで華やかな余韻を残して。
                                                    【終】



この劇評は、九州・福岡演劇祭劇評賞に応募して、入賞いたしました。
選者・扇田昭彦先生からの評をいただきましたので、併せて掲載しておきます。
詳しくは公式サイトへ
 → http://10kinen.info/pr_works/critic.php


(選評)
村山さんの文章は、内容的により突っ込んだ劇評です。衣裳に詳しく触れ、俳優たちの演技を論じ、部分的に批判も加えています。今回の公演の意義をきちんと語っているのも評価できます。ヒポリタの人物像の変化については具体的に触れていませんが、「セリフやテンポは現代的にうまく脚色」という表現がそれを暗示しているのかもしれません。ただし、この劇評の弱点は、舞台作りの中心である「演出」にまったく触れていないことです(文中に演出家・後藤香さんの名前も出てきません)。




 

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「ミュージカル 銀河鉄道の夜」 (H22年度まどかぴあ 子どものための舞台創造プログラム)
2010.08.10 Tuesday 17:57
JUGEMテーマ:演劇・舞台


「どこまでも行ける通行券を持って」

          日時:2010年7月31日 17:00〜   場所:大野城まどかぴあ大ホール
                                                    村山雅子(HN: 観世)



 大野城まどかぴあ主催による【子どものための舞台創造プログラム】として、出演する子どもたちを近隣から公募し、創り上げられたミュージカルである。出演者は応募者の中からオーディションで選ばれた小5〜高2の42名の子どもたち。数名の大人の役者(福岡の小劇団に所属)も混じる。作品は、もともとわらび座が上演したもので、有名な宮沢賢治の童話を市川森一が脚本化。これにまどかぴあ独自の演出・振り付けが成されたとのことだ。演出は、全国で多方面にわたり活躍している大杉良氏を招聘。ダンスと歌唱も、地元福岡でプロとして活動している講師(巽慎之介、進登祐美)が指導している。
 まずはこれだけの企画を立て、人を集め、運営するという、まどかぴあの取り組みに感心。私の住む地域にはこのような文化施設や取り組みがないので、なおさら感心するし羨ましくも思う。また全国的に見て、劇場主催・地域主催の活動がたいへんレベルが高くなってきていると思うのだが、まどかぴあもよく取り組んでいて、特に水準の高さにおいては福岡県を代表する団体の一つと言えよう。今回も子どものミュージカルに、これだけのスタッフでのバックアップということで、地域の芸術振興はもちろん、教育、市民への文化の啓蒙といった点でも、意義は大きいと思う。
 さて、肝心の舞台であるが、とても今回限りの子どもたちの集まりとは思えない出来で、オープニングから目を見張らされた。まだ客席が明るいうちから、客席横の出入口より入ってくる子どもたち。舞台上にもたくさん登場してくる。客電が落ち、音楽が入り、子どもたちの合唱が始まる。どの子も堂々と生き生きと歌っている。舞台上の立ち位置も体の大きさなどを考慮し、美しく配置してある。次の曲では踊りが入るが、これもカッコいい。群舞としてのまとまりの美しさを保ちながら、身体能力が高い子には高度な動きをさせ、全体のレベルを上げている。
 音楽(甲斐正人作曲)もどれもすばらしい。子どもたちの歌唱力が高いのにも感心したが、やはり優れた曲であるということが感動を大きくしている。出演者にとっても、この魅力的な心震わせる曲の数々を合唱することができたのは幸せな体験であり財産となったであろう。
 宮沢賢治の言葉は、不条理で言葉づかいも独特であるのはよく知られるところだ。私は子どもが演じる「銀河鉄道の夜」を初めて見たのだが、子どもの声・子どもの言い方で賢治のことばを聴くとこんなにも心地よいのかと驚いた。会話の飛躍や不思議な造語も、子ども同士では普通にあることなので、不自然というよりは楽しい。また、さそりの気持ちになって「本当のさいわいのためには命を投げ出してもかまわない。ぼくたちはきっとしっかりやろう」などというセリフは、大人目線で取ろうとすればいくらでも欺瞞に取れる言葉だが、子どもが懸命に演じることによって、透き通ったしずくのようにスッと心の中に落ちて来る。宮沢賢治の言葉というのは、こんなに素直で美しく感覚に訴えかけるものなのかと、今回初めて思った。それは間違いなく、ひたむきに演じる子どもたちの姿ゆえであろう。
 キラキラ輝くまなざしと笑顔の前に、世界は星空のように無限に広がっている。ジョバンニが持っていた「どこまでも行ける通行券」は、出演した子どもたち全員のポケットに入っているに違いない。
                                                    【終】

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「裏切りの街」 テレビ観劇  
2010.07.23 Friday 23:27
JUGEMテーマ:演劇・舞台

(北九州芸術劇場でも上演された本作ですが、残念ながら舞台は見る事ができませんでした。
テレビで放送がありましたので、それを見て書いた劇評です。)

 

公演  2010年 5〜6月  
収録  パルコ劇場

 (鑑賞日時:2010年7月16日)


作・演出  三浦大輔(ポツドール)

出演  田中圭、秋山菜津子、松尾スズキ、安藤サクラ、米村亮太朗、他


 

日々怠惰に暮らし、付き合っている女のヒモのように生活している菅原祐一(田中圭)。バイトも無断欠勤し、親からの電話にも出ず、エロ動画を見たり出会い系サイトに電話したりして1日をつぶしている。あるとき出会い系サイト電話に1人の女が出る。なんとなく惹かれ会う約束をしてみると、40歳くらいの女性(秋山菜津子)であった。次第に親しくなり、深い関係に陥るが、祐一は彼女を、女性=智子は夫を裏切る背徳心を抱える事になる。しかしパートナーがいることを知っても、別れる気もないままに関係を続ける二人。やがて智子は祐一の子を妊娠する。同時期に二人の関係も、双方のパートナーにバレてしまう。

 全編を通して漂うけだるさ。頻繁に性行為の描写が出てくるが、イヤな気持ちはしない。祐一と智子は、一秒の猶予もないように慌しく衣服を脱ぎ、貪るようにお互いのカラダを求める。動物的で激しいその行為は、男女の恋のロマンチックさとはかけ離れているようだ。しかしそこに至るまでの二人の会話や態度からは、決して性欲を満たすためだけの相手ではないことを感じる。好きなお笑い芸人が一緒であったり、見た目が好みであったり、何より文句のつけようがないパートナーが居ながら自分はどうしてこうもダメなのか、という劣等感と自責を抱えている事をお互いに感じ取ったことが、二人を結びつけている。それを見ていると、このどうしようもない二人に対して、ある種の愛おしさと共感をおぼえてしまう。

最初は、この二人がパートナーを裏切っているだけのように見えた。祐一の彼女 里美(安藤サクラ)も智子の夫 橋本(松尾スズキ)も、善良で献身的に相手に愛情を尽くしており、しかも浮気にうすうす感づきながらも黙って耐えている。祐一と智子がラブホテルで激しくSEXをしている間、家で独り待っている里美と橋本のシーンがそれを印象づける。

しかし、話が進むにつれ、パートナーたちも裏切りを重ねていることがわかってくる。どの登場人物も相手に嘘をついていて、しかも裏切っているのは仕方ないと心の中で正当化している。抱えている重大な問題とまっすぐに向き合って解決することはせず、なんとなくどうにかなるだろうとやり過ごしている。またそれで何とかおさまって生活が動いて行き、破綻する危機感も持っていない。

彼らはみな逃げていて、もろくて、ずるい。決して手本となるような生き方とはいえないが、不思議と共感してしまう。祐一や智子が自己嫌悪しながら浮気するのもわかるし、どうせ自分からは逃れられないとわかっている橋本や里美の見下した気持ちもわかるし、その裏側には一応の愛情もあることもわかる。そして、自分の正当性を訴えるために彼らの口から出る必死な言葉も、ウソではなく、しかしまた真実でもない。そんなごまかしや言い訳は、多分私たちの誰にでも思い当たる。だからダメだなぁと思いつつも共感してしまうのだ。

三浦は岸田國士戯曲賞を受賞した「愛の渦」でも過激な性描写やリアルな会話で、若者の人間模様を表現したというが、本作でもその方法で舞台を息づかせることに成功している。各シーンが今目の前で起こっている現実のようであるのは、役者の巧さもあるが、脚本のセリフがよく構築されているためと、演出の緻密さによるものであろう。特に祐一を取り巻く若者たちの会話は、「マジありえねーし」とか「わかってッから」とか、いかにも現代風の日常会話であるが、実は非常に練られて選ばれたセリフであり行動であると思う。だからこそ、その場をはぐらかすようなことばかりしているのに、こちらには状況と心情が現実味をもって伝わってくるのだ。

若者の日常を切り取ったような会話劇は昨今人気だが、一言で「若者の日常」といっても、チープで軽い内容の作品群とは明らかに一線を画す作品であった。こんなにダメな人々を見せられたのに、なぜか人間が愛おしく、人恋しくなった。 

田中圭の、体当たりで繊細な演技に拍手。映像が主で舞台はまだ3度目という彼だが、度胸の良さとたしかな演技力を感じた。秋山菜津子の演技は、生まれて初めて出会い系サイトに電話し、見ず知らずの若者に出会った初々しさがリアルで新鮮。松尾スズキの、慇懃でやさしい態度を取りながらも時折見せる氷のような表情、不気味さもさすが。

 舞台美術(田中敏恵)が魅力的。舞台下手上部には智子と橋本の家、上手には祐一と里美の同棲している部屋が配され、舞台の転換で中央部に街、駅構内、ラブホテルなどが次々に立体感をもって現れる。けだるく破壊的な音の〈銀杏BOYS〉の音楽もよかった。                    
                                                                                                                          【終】

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様式に形取られた民話的世界
2010.07.15 Thursday 14:45
JUGEMテーマ:演劇・舞台
 

こふく劇場 「水をめぐる」
          日時: 2010年4月29日  18:00〜   場所:西鉄ホール 
                                                
村山雅子     


 照明に照らされた水面の揺れが、役者の肌に反射して映る。その美しいゆらめきが目に残り、耳には、すくい上げた手からしたたり落ちる水の音が、そしてあの床板を踏み鳴らして歩く音が残る。

宮崎で20年活動を続けている、こふく劇場の公演。中央に黒い板張りの舞台があり、その周囲をやはり板張りの通路が囲んでいるだけの、簡素な舞台。中央舞台の真ん中の3つの四角い透明な水槽には、水がたたえられている。下手の舞台脇には太鼓やトライアングル等簡単な打楽器が置かれ、上手には古いラジオのようなものがある。開演前にはそのラジオから、水琴窟のような音が流れていた。

ストーリーとしては4人の登場人物が代わるがわる現れ、それぞれの水との関係を語りながら関わっていくというもの。これは若返りの水であり自分は本当は88歳の老婆であるという、若い女(かみもと千春)。燃える水を探しに来たのだ、きっとこの水は待っていれば燃える水になると言い、そこに居座る男(濱砂崇浩)。この水で目を洗うと目が見えるようになる、と言う盲目の女(玉利美緒)。そして、一言も口をきかず、苦しそうに身悶えしながら水で身体を拭く謎の女(あべゆう)。

特筆すべきは、その様式的手法である。

役者の出入りは同じ形式で統一されている。まず、腰を曲げた体勢で下手から登場し、止まる。それは歌舞伎や能の花道奥で、金輪の音とともに上がる揚幕の効果に似て、「役者が出るぞ」という心構えを客に促す。そのまま腰を低く落とした体勢で、演奏される打楽器の音に合わせて足を踏み鳴らしながら、無表情に通路を一周。これも能の橋掛りを進んでくる登場のしかたと同じ手法であるといえよう。それぞれの役者の登場は、顔見世のように観客に印象づけられる。また、歩に合わせた打楽器の音は、歌舞伎の立ち回り時の拍子木も思い起こさせる。そして本舞台に上がると、必ず決まった音で腰を伸ばしてまっすぐ立ち、静かに「こんにちは」と言う。まるで能において、本舞台に着いた演者が正面を向き直って構えるかのようだ。

役者は出ハケのたびにこの動作を繰り返す。時折ことばを発しながらだったり、駆け去ったりもするが、極端に型をはずれることはない。このように日本の古典を参考とした形式の上での縛りを課し、その制約の中で表現することで、そこから生まれる緊張感と美を外枠にした。ひとつのメソッドとして面白い。

また、神であるらしいとされる謎の女のたたずまいや、声を出さないところ、そして水で身体を洗うしぐさは、古来の日本の神の存在――静かで、暮らしと共にあり、けれども畏れを抱かせる存在――を想起させる。宮崎といえば高千穂神楽などでも知られるが、簡素で和風な衣裳や、舞台全体の雰囲気は、神楽の影響と言えるだろう。

登場人物たちはといえば、自分の世界に生きている人ばかり。いろいろ訴えるが、自分個人の悩み事ばかりだ。88歳だと名乗る女性は、昔1人の男に愛されたことが忘れられず、愛して欲しいと言う。男は、ずっと昔妻が凌辱されて殺されたのは、あんたと間違われたせいだと謎の女に話す。どの話も、一人よがりであるうえに、現実か虚実かよくわからない話だ。そのため、重苦しい内容であるが民話や昔話を聞いているかのようである。

男の話を聞いたあと、水が燃え出し、謎の女はうめき声のような絞り出す声でしばらく発声している。クライマックス的シーンだとは思うが、女のうめき声がとてもリアルで長く続くため、見ていることに苦痛を覚えた。激しい演技であるのにあと一歩胸の奥まで迫って来なかったのは、声のあげ方が長すぎ、リアルすぎたためではないかと、惜しく思った。もっとも演出はあの息苦しさが作品上不可欠だと思ったのかもしれないが。

きわめて演劇的で、土着芸能的匂いがする作品だったと思う。セリフまわしも独特のイントネーションで、宮崎弁とも違うようだったが、民話的な印象を強める手助けをしていた。

照明が非常に美しかった(工藤真一、川田京子)。水と簡素な舞台とが、照明効果を一層引き立てていた。

【終】

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エスパーの集まる喫茶店へようこそ!
2010.03.03 Wednesday 22:20
JUGEMテーマ:演劇・舞台


ヨーロッパ企画 「曲がれ!スプーン」
           日時: 2010年2月14日  13:00〜   場所:イムズホール
                                                 村山雅子


  とにかく楽しい。とぼけた登場人物たち。不測の事態に対する必死さとダメダメ加減。シチュエーション・コメディのお手本のような作品だ。

『冬のユリゲラー』という題で2000年に初演された作品を、映画化(監督:本広克行、主演:長澤まさみ)に伴って『曲がれ!スプーン』と改題。今回で4度目の再演だそうだが、人気作品なのもうなずける。

舞台はクラシカルな喫茶店内。店の名前は「カフェ・ド・念力」。この店名に惹かれて、超能力を持った客が数人常連となっている。彼らは普段は素性を知られないようにしているが、今日はエスパーだけが集まってパーティーをするクリスマスの夜だ。それぞれが超能力を披露する中、実は超能力を持たない一般人が1人紛れ込んでいることがわかる。うろたえるエスパーたち。しかもそこへ、インチキ超能力番組「あすなろサイキック」の取材までやって来る。彼らの超能力はスクープされてしまうのか!?

彼らがエスパーだという設定を知った時点で、どんな能力をどれくらい持っているんだろうという観客側のワクワク感が味方となる。その好奇心を飽きさせない展開と、役者陣の味。しかも冴えない面々が、ちょっとだけそれらしいことができる、という中途半端さがまたおかしさをかもし出す。

超能力は、チマチマした小技の人もいるのだが、物(しかも相当大きな物)を動かすことができるとか、時間を止めるという大技を持つ人もいたりすることで、閉めきった喫茶店の中という狭い空間での話が、なんとなく四次元的広がりがあるような感覚に。

物を移動するサイコキネシスが使えるのは、河岡(諏訪 雅)。自分では制御不能なほどの力を持つという。気に入らない相手にパワーを送り、座っている椅子ごと引っくり返してしまう。そんなの、椅子に座っている役者が自分でゆっくり倒れているだけなのだが、わかっていても本当に超能力で倒されたように見えて愉しい。

また、テレポーテーションが使えるという小山(本多力)は、時間を5秒くらい止めてその間に自分が移動する、ということなのだが、時間を止めるといっても5秒くらいでは他に何もできない。取材に来ていたテレビ局ADの上着を取って来いと言われて時間を止めるが、行く途中でコケて何もしないで戻ってくる。まるでコントである。

1人、エスパーではないのに、来店したためエスパーと間違われた男(永野宗典)。彼は細男(ほそおとこ)と称し、どんな細い所でも通り抜けられる超能力者だと言うが、実は身体が細身なだけのインチキ。この細男を永野が熱演。最初のイキがり方、その後のいじめられ方、超能力のかけられ方など、身体を張った演技でいきいきと躍動する。弱気な役がよく似合う永野の、本領発揮といったところか。

この劇団の初期の勢いを感じさせる、上質なコメディだ。設定の面白さ、展開の軽妙さ、テンポの良さで、観客は難なく芝居に引き込まれ、身体も頭も預けて遠慮なく楽しめる。子どもの頃みたいに、タネや仕掛けを考えずに目をキラキラさせて手品を見る感じ。そして、ただおかしくて素直に「アハハッ」と笑ってしまう。「あーおもしろかった!」とスッキリした幸せな気分で劇場を出て、思いだしては愉快な気持ちになる。こんな観後感の作品には久しぶりに出会った。

                                                                                                                     【終】
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